gakushu - 最新エントリー
(NHK20160211)
三河煙火史:
天文12年(1541)西洋式鉄砲及び火薬の伝来により、
鉄砲は大筒をうみだし、各武将によって改良が加えられ
軍事的武器へと発達し、その重要性と秘密性は
ますますその度合いを深めていったのである。
その中でとくに昔から火術に関係の深かったのが三河地方で、
戦国時代において三河武士が千軍万馬の間に名をはせた。
徳川家康は、早くより火薬の威力を利用し、
三河の青年武士からなる鉄砲隊を編成するとともに、
細川家を追放された稲富流砲術師範・稲富伊賀守直家を召し抱えて、
鉄砲鍛冶の指導にあたらせた。
詳細→YouTube: 歴史じっくり紀行
さらに津田流砲術の根来衆を
加えてますます鉄砲・火術の拡充をはかり、
より強大にしていったのである。
かくして天下統一の偉業をなしとげたのである。
反乱や一揆に対し必要以上に神経過敏であった家康が
もっとも恐ろしい殺人武器である火薬および硝石の採取
などを幕府発祥の地である三河のみに限らせ、かつ
三河においてのみ製造貯蔵を奨励したのは、
全く当然のことであり、ここにおいて
「お国もの」の特権が生じたのである。
徳川家康の開府後は、各藩の鉄砲・火薬の製造を
厳重に制約され「お国もの」の特権は更にその
強大さをほこっていったのである。
徳川300年の泰平の時代になるに至って、
稲富流の砲術・火術である軍事用の火術は
重要性が弱まり、平和の煙火へと変化し、
稲富流火術は稲留流煙火となり更に分派して
稲穂流をはじめその他多数の流派をうみだしていったのである。
(NHK20140628)
(NHK20150519)
(NHK20150930)
(NHK20150930)
モンゴル帝国の栄枯盛衰:
異常気象等によりウイグル帝国が衰退すると、
キルギスの支配→タタールの支配と変遷、
群雄割拠に時代が続く。
1162、君主制遊牧民社会に、テムジン生まれる。
世界人口の半数以上を統治するに到る、人類史上最大規模の世界帝国。
1190、テムジン同胞が釜茹にされ、宿敵ジャムカが人望を失なってゆく。
1195、タタル討伐で、金の国から「百人長」の称号を得る。
1205、宿敵ジャムカを処刑。
1206、
テムジンがモンゴル帝国を開き「チンギスハン」と名乗る。
組織を階層化、腹心に従属民を分け与え、千人隊を編成させる
軍政一致構造が恒常的な征服戦争を可能とした。
1211、金と海戦。
1218、20万の軍で東アジア遠征。
1218、チンギス密偵が内乱扇動、西遼(トルクメニスタン)併合。
1225、アフガニスタン平定。
1227、南宋に向かうも初代皇帝チンギスハン死去。
1232、金王朝滅亡
1235、ヨーロッパ遠征。ポーランド侵攻。
1241、欧州連合軍も敗退、
1242、2代目モンゴル皇帝死去、欧州撤退。
1258、クビライ10万の兵でバグダット陥落、アッパース朝滅亡。
1260、4代目死去、クビライが兄弟と後継者争い。
1254、クビライ、5代目モンゴル皇帝に。
1271、クビライが、元を建国。
1280、モンゴル帝国は元を中心とした連邦制に移行。
1281、2回目の元寇も失敗。
1284、樺太遠征、アイヌを追い出す。
1285、ベトナム遠征失敗。
1287、ミャンマー遠征失敗。。
1287、クビライ支持母体が離反、日本遠征を断念。
1294、5代目モンゴル皇帝クビライ死去。
1304、
西方諸王との和睦。
元の首都・大都(北京)を中心に、
経済交易が進み、太平の時代へ(パクス・モンゴリカ)。
1351、元が黄河改修工事開始。工夫達が紅巾の乱。
1368、紅巾の党の首領が明を建国。
1388、元の内紛でチンギスハンの血統途絶え滅亡へ。
モンゴル帝国はムガル帝国などに継承されていった。
2004年にオクスフォード大学の遺伝学研究チームは、
DNA解析の結果、チンギス・カンが世界中でもっとも子孫を
多く残した人物であるという結論を発表した。
モンゴルから北中国にかけての地域で男性の8%、
およそ1300万人に共通するY染色体ハプロタイプが検知出来たという。
この特徴を有する地域は中東から中央アジアまで広く分布し、
現在までにそのY染色体を引き継いでいる人物、すなわち
男系の子孫は1600万人にのぼるとされる。
研究チームはこの特有のY染色体の拡散の原因を作った人物は、
モンゴル帝国の創始者チンギス・カンであると推測している。